会社紹介(製品今昔物語)
会社設立
我が社は、1989年5月に設立された。代表取締役社長の本田周が勤めていた(株)日音医理科器械製作所の開発部隊として二人の兄の了解の元に、部下の社員一人を連れて2名で開発型企業をスタートさせた。場所は社員が通勤しやすいように駅の近くを捜し、新京成電鉄薬園台駅から徒歩2分ほどのビルにした。
(株)日音医理科器械製作所設立
日音医理科器械製作所は社長本田周の父 本田将隆が1911年に設立した会社で、当初は耳鼻咽喉科で使われる手術用の器具(鋼製小物)の製造から始まった。本田将隆は開発意欲に燃え、常に新しい物を製作していた。その中でもドイツから輸入されていた音叉に大変興味を持ち、国内での音叉の開発・製造に取り掛かった。そして医療用の音叉だけでなく、教材用や音楽の調律用等いろいろな分野に使われる音叉を作っていった。
第2次世界大戦中には、軍からの依頼で発信器用の音叉の開発に携わったこともあった。又戦後には東京通信機工業(現SONY)の井深社長が訪ねてこられ通信用の音叉に関する開発の商談もあったと言う。
現在の日音医理科器械製作所は事業を拡大し、医療器具製造だけでなく、医療現場での感染予防の関する機器・消耗品を世界中から捜し集め、国内の医療機関に提供している。
社長経歴
代表者の本田周(めぐる)は1966年明治大学工学部電気工学科を卒業後、(株)日本オートマティックコントロールに入社し、米国American Instrument Company(AMINCO)社の理化学製品の担当となる。AMINCO社は、米国ワシントン州のメリーランドにあり、光学分析機器、電気化学機器、温湿度調整機器、超高圧機器、材料試験機器等、それらに加えて遠心型臨床分析装置や成分輸血装置などを手がけた先進的な企業であった。
本田は学生時代レーザー光源を学んだことから、AMINCO-BOWMAN蛍光分光光度計の販売・サービスを主に担当することになった。日本オートマティックコントロールでの在籍期間は6年ほどであったが、良き指導者の元に営業面での訓練を受けることが出来た。又、自身の旺盛な研究心・探求心は機械の構造やノウハウをつかみ取り、子供の頃から父親の工場で見て・体験してきた製造に関する知識と相まって、どのようにすれば加工・組立が出来るかなど密かに蓄えられていった。
営業で最初に販売できた物は、FisherのカタログにあるVirtis社の高速ホモジナイザーであった。このことも、現在のマイクロテック・ニチオンを支える製品ヒスコトロン超高速万能ホモジナイザーに繋がりがあったので奇遇である。本田はその他に超高圧機器、水銀圧入式細孔分布測定装置など多くの AMINCO社の製品を手がけた。又同社の姉妹会社である近藤工業は、米国ケンリッジフィルター社の総代理店で、半導体製造等の工場の空調設備等を請け負っており、当初は同じビルで事業をしていたので、HEPAフィルターのテストをするための微粒子(0.3μm)発生器なども扱うこととなった。
本田が日本オートマティックコントロールを退社する頃に、生物発光を測定するCHEM-GLOW Photometerが紹介されてきた。既に海洋科学分野・NASAなどで使われていたようで、現在のマイクロテックニチオンのルミカウンターを始め、生物発光・化学発光に関するノウハウもこの時から蓄積されていった。
元から、本田は父親のやってきた音叉の事業を拡大したく思っていたので、1972年日本オートマティックコントロールを円満退社し、日音医理科器械製作所に勤める事になった。当初は兄がやっていた外交(東京の本郷にある医療器の問屋に製品を納入・更に注文を取る営業。その後下町にある協力工場を回り、部材提供・加工品回収など)をした。この中で、協力工場を回れたことは、子供の頃父親の作業場を見たこと以上に、物作りに関する実際的な知識を得ることが出来た。いろいろな要求を聞きながら、よりよい物を作ろうとする思いは、本田の中に蓄えられていった知識を元に図面化されていった。
しかし、それ以上に、営業面で実績を上げたいとの願いがあり、ピアノ調律用に製造されていた音叉を楽器卸業者に卸せば、もっと売り上げが上がるであろうと、神田にある楽器卸し会社に売り込みに行ったところ、普段製造している数の10倍ほどの注文をもらえることが出来た。しかしその後製造が間に合わず、良い物を作れても良い物を数多く作ることの出来る体制になっていないことが判ってきた。そのような中で、AMINCO の他輸入品の分析機器を、東京大学や千葉大学など近くの大学の先生方に紹介していったところ、少しずつ注文を頂けるようになり、自然に音叉から理化学機器の方へ再び移っていった。
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